老人は夢を見た。
夢に泣いていた。
どんな夢だったのか。
目を開けた瞬間に忘れてしまった。
眼は涙に濡れ、それが頬を伝い落ちた跡があるというのに。
心には鋭利な刃でスッと裂かれたような痛みがあった。
痛みは確かだ。
夢ではない。

窓があった。
窓からは月明かりが零れている。
チラチラと心が痛い。
痛みに眠りは妨げられた。
寝床を抜けそっと部屋を歩き窓へ向う。窓を開けテラスへ出た。
シンと冷えた夜闇。降り注ぐ音が聞こえそうな青く冷たい月明かり。

月と忘れてしまった夢が老人を動かした。
軽く手を振りかざせば魔術のように人形が現れる。
テラスのテーブルの上に手のひらほどの人形が２つ。
月のスポットライトを浴びて出来た影が、テーブルの上に薄く長く伸びる。

老人は希代の人形遣いだ。

２つの人形は老人の手によって命を吹き込まれる。
老人は人形を操る。人形は話を紡ぐ。

少年には恋しい人がいた。優く美しい少女。
この想いをどう打ち明けよう。
この心をどう伝えよう。
少年は考えた。
自分が最も自分らしく出来るやり方を考えた。

そうだ。人形で、人形芝居で伝えよう。恋の告白を。幸せな結末で。
きっと彼女は微笑と拍手をくれるだろう。
それから彼女に言うんだ。自分の口から自分の恋を。

そうして少年の恋は伝わる。少女は頬を染めはにかむ。
どんな返事をする？
少女から答えの言葉はなかった。
ただ少女は少年の手を取った。手を取り踊った。
微笑ながら踊った。くるくると手を繋いで踊った。
天に舞い昇るかのように。
軽やかに楽しげに幸せに満ち溢れ。

テーブルの上に影が２つ。月光の下に踊る人形の姿があった。
老人の興じるままに踊っていた。
月がそれを見ていた。

部屋の人形達がそれを見ていた。
老人の部屋には無数の人形があった。
四方の壁にかかり、天井から吊るされて、床に置かれ。
ガラス球の瞳はいつも老人を見ていた。
人形達は知っていた。
老人の忘れた夢を知っていた。

少年の思い人、少女は無残に散ってしまった。

失ってしまったのなら作ってしまおうか。
そうだ。もう一度作ってしまえばいいのだ。
彼女の魂が器を求めているのだ。
もう一度、出会うために。
寸分違わぬ同じ器を。人形を。
同じ美しさを。変わらぬ優しさを。
もう一度、出会って幸せなひと時を過ごす為に。
少女の汚れない魂が戻るまで、完璧に造る。
彼女の心が戻るまで、清らかな人型を造り続ける。

少年は狂った。狂った人形師になった。

魂の宿らぬ傀儡（くぐつ）達が老人を見ていた。
四方の壁にかかり埋もれ、
天井から吊るされ落ち、
床に置かれ山積みとなって。
月明かり浴びるテラスで眠りにつけぬ年老いた人形師が
淡い恋物語に興じる姿を見ていた。

たった一体だけ老人を見なかった。
それはまるで生きているように横たわった人形だった。
老人が生涯をかけて造り上げた完璧な形だった。
幾度も作り直し磨き上げ、そして更なる形を追求した女の姿だった。
そしてこの人形だけはこの年老いた人形遣いの意に背いた。
傀儡として操られる事を嫌った。
棺に入った、ただ横たわるだけの美しい人形。

老人は忘れてしまった。
どうしてこの動かぬ人形が愛しいのか、思い出せなかった。

テラスで演じられていた恋物語も終る。
テーブルの上に踊り疲れた人形が２つ。
少年の形。
少女の形。

手を置いた老人が独り。
興じた演目に笑っているのか泣いているのか。

月明かりが人形遣いの瞳を隠した。

完